三蹟 ―和様の創生へ―
目次
三蹟と和様成立の背景
平安時代初期に活躍した三筆は唐の影響を受けた書を書いていましたが、平安前期から中期にかけては新たに三蹟(さんせき)という三人の書家が活躍し、和様(わよう)と呼ばれる日本風の書を完成しました。
長らく日本と親交が深かった唐ですが、9世紀には内乱続きで情勢がとても不安定でした。また、日本から唐への航海はリスクが大きく、唐へ使いを送るメリットが次第に薄れてきました。そこで、894年に遣唐使は完全に廃止されました。その結果、日本へ唐の文化が入らなくなったため、日本独自の芸術文化が発展するきっかけとなりました。これが国風文化の成立です。書道でも和様が成立し、広く流行していきました。
小野道風(おののみちかぜ 894~967年)
小野道風
小野道風(または、おののとうふう)は10世紀に活躍した貴族で、和様書道の礎を築きました。王羲之の生まれかわりと称されるほど、達筆であったと考えられています。また、空海の書を批判したという逸話も残されています。道風の書風は「野跡」(やせき)と呼ばれました。
小野道風は王羲之風の書を基礎としながら、日本風の優美な書風を作り出した人物だと考えられています。現存する小野道風直筆の書籍はかなり残っていますが、いずれも漢文で仮名の真筆は残っていません。おそらくもっとも有名な作品は『秋萩帖』でしょう。これは、万葉仮名を草書体で記した草仮名で書かれています。しかし、『秋萩帖』は小野道風の真筆であると断定されていません。『屏風土代』という屏風に漢詩を書きつけたときの下書きは小野道風が書いたものであると考えられています。『屏風土代』や『玉泉帖』といった漢詩の作品には楷行草書と複数の書体が交えて書かれています。
小野道風は後の日本の書道史に大きな影響を与えました。
小野道風の代表作
- 『秋萩帖』(あきはぎじょう)……草書
- 『屏風土代』(びょうぶどだい)……楷書、行書、草書で書かれている漢詩
- 『玉泉帖』(ぎょくせんじょう)……楷書、行書、草書
藤原佐理(ふじわらのすけまさ 944~998年)
藤原佐理
藤原佐理(または、ふじわらのさり)は平安時代中期の貴族です。特に草書が優れており、佐理の筆跡は「佐蹟」(させき)と呼ばれました。藤原佐理は案外だらしない人であったようで、現存する真筆は詫び状がほとんどです。お詫びの書状であっても現在まで残っているということは、それほど優れた作品だと認められて重宝されたのでしょう。
『詩懐紙』という漢詩や和歌の写しには小野道風の書風の影響が見られますが、中年から晩年にかけての作品には佐理独自の書風が見られるようになってきます。
小野道風が築き上げた和様の基礎を、藤原佐理がさらに発展させました。
藤原佐理の代表作
- 『詩懐紙』(しかいし)……草書の漢詩や和歌
- 『離洛帖』(りらくじょう)……草書の詫び状で唐風色が強い
- 『国申文帖』(くにのもうしぶみじょう)……草書の詫び状
藤原行成(ふじわらのゆきなり 972~1028年)
藤原行成
藤原行成(または、ふじわらのこうぜい)は平安時代中期の平安貴族です。行成が生まれたのは小野道風が没した後であり、藤原行成が生きた時代では小野道風の書が重宝されていました。したがって、藤原行成の書は小野道風の影響を大いに受けたのだと考えられています。行成が記したと考えられる『権記』(ごんき)という日記には、夢の中で小野道風から書法を授かったというエピソードが書かれています。それほど行成は小野道風に強い憧れを抱いていたようです。
藤原行成の書体は「権跡」(ごんせき)と呼ばれ、やがて書道の流派の一つである世尊寺流の開祖になりました。世尊寺流は宮廷や貴族の間で最も権威ある書法として受け継がれていきましたが、16世紀頃(室町時代)に断絶してしまいました。
藤原行成は三蹟の中で最後に活躍した人物であり、小野道風や藤原佐理の影響を十分に受け、和様書道を完成させたと考えられています。
藤原行成の代表作
- 『白氏詩巻』(はくししかん)……行書、草書の漢詩文
- 『本能寺切』(ほんのうじぎれ)……草書の漢詩文
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