三筆―中国の影響を受けた書道家―

目次

三筆とは?

 中国だけでなく日本にも書の名人はいました。日本の書道史上、優れた三人の書道家には三筆(さんぴつ)という尊称が使われていました。三筆は各時代にいたりいなかったりしますが、単に三筆というと一般的には平安時代初期に活躍した嵯峨天皇空海橘逸勢の三人を指します

 三筆の三人が活躍した9世紀初頭の日本は、中国との国交が盛んでした。したがって、日本に唐の優れた文化が多く流れていて、唐風の文化が栄えていました。この流れを受けて、書風も唐風の漢字書道が好まれていました。三筆の作品も、唐の影響を多大に受けているのが特徴です

空海(くうかい 774~835年)

 空海は真言宗の開祖です。弘法大使、五筆和尚といった別名もあります。「弘法にも筆の誤り」という諺にある弘法とは空海のことを指します。

 空海は804年に遣唐使として唐へ渡り、そこで仏教や書法の他、漢詩や筆の製法なども学びました。帰国後は即位した嵯峨天皇に唐での留学経験を買われて起用され、やがて真言宗を確立させます。

 空海の筆跡として有名なものは、天台宗の開祖の最澄へ当てた手紙です。手紙は全五通あったと考えられていますが、現在残っているのは三通のみです。その中の第一通目である『風信帖』が最も優れているとされています。

 書風は三通とも異なる表現を持っており、これまでの書の基本となっていた王羲之の書法に則ったものに、顔真卿の筆法を加えています。その結果、おおらかで上品な書風の中に力強さも垣間見える非常に趣のある書風になりました。空海の書には唐様の技法だけでなく軽やかで柔らかい表現も見られます。ここからやがて日本風の書である和様へと繋がっていきます。

空海の代表作

『風信帖』(ふうしんじょう)……草書と行書の併用が見られる

嵯峨天皇(さがてんのう 786~842年)

 嵯峨天皇は平安京へ遷都した桓武天皇の第二皇子で、空海が唐から帰国した後に天皇に即位しました。

 嵯峨天皇は唐の文化に興味を持っており、在位中は宮廷を中心に唐風文化が栄えました。書では初唐の三大家の一人である欧陽詢の書風を愛好しており、多大な影響を受けていましたが、空海と交流することによって次第に空海風の書を書くようになりました。

嵯峨天皇の代表作

『光定戒牒』(こうじょうかいちょう)……楷書、行書、草書の併用が見られる

橘逸勢(たちばなのはやなり ?~842年)

 橘逸勢は平安時代初期の貴族で、空海と共に遣唐使として唐へ渡った人物です。

 留学中は唐の文人たちに書の腕前を称賛されており、隷書を得意としていたといわれています。確かな真筆は残っていませんが、『伊都内親王願文』という願文は橘逸勢が書いたものではないかと考えられています。

橘逸勢の代表作

『伊都内親王願文』(いとないしんのうがんもん)……行書で書かれている