漢字の始まり

概要

 日本で現在も当たり前のように使われている漢字ですが、そもそも漢字はどのようにして生まれたのでしょうか。結論から言いますと漢字は日本で生まれたものではなく、中国から伝わってきたものです。ですので日本の漢字について学ぶ前に、まずは中国でどのようにして漢字が生まれたのかを学んでおくといいでしょう。この項目では文字の歴史を時代を追って紹介します。

目次

甲骨文字

 漢字は今から約3300年前の中国で生まれました。その漢字の基となった文字が甲骨文字です。殷の末期から周の初期に使われていた、現存する最古の漢字だと考えられています。亀の甲羅や動物の骨に刻まれていることからこの名前が付けられました。もともとは占いの結果を記録するために使われていたようです。

 甲骨文字は文字というよりどちらかというと絵に近いような形をしています。ですが、このころから動詞や形容詞の意味を含む文字も存在していました。

甲骨文字
甲骨文字の資料

金文

 金文(きんぶん)は青銅器の表面に刻まれた文字のことで、甲骨文字の後に生まれたと考えられています。殷・周・秦漢時代の出土資料によく見られるので、殷の末期から三国時代頃まで使われていたようです。甲骨文字よりも使用されていた期間が長いため、時代によって形が変化していたり、刻まれた青銅器に偏りがあったりするようです。

史頌鼎
史頌鼎(ししょうてい)に刻まれた金文の資料

篆書

 篆書は、甲骨文字や金文を基礎として作られた書体です。篆書には様々な種類がありますが、その中で最も有名なのは小篆という書体です。

 秦代に入ると大篆という書体が使われるようになりますが、大篆は書き方が複雑で書くのにとても時間がかかる書体でした。また、各地で独自の発展をするようになり、さらには地方ごとに全く異なる字体が使用されるようになっていきました。そこで、中国統一を成し遂げた始皇帝は字体を統一することにしました。この時に生まれたものが小篆(篆書)です。

(篆書の詳しい特徴については「篆書について」を参照)

「石鼓文」
「石鼓文(せっこぶん)」大篆書 筆者不明

隷書

 小篆は複雑で難解な字で実用的ではなかったため、やがて人々は書きやすいように小篆を簡略化し、曲線を直線にして書くようになりました。それが後に隷書という書体になります。隷書は書物から石碑、木簡に至るまであらゆる場面で使われました。この隷書から、後に草書・行書・楷書の三つの書体が生まれました。

(隷書の詳しい特徴については「隷書について」を参照)

「曹全碑」
「曹全碑(そうぜんひ)」筆者不明

草書

 隷書を早書きしている過程で隷書は次第に崩されていき、草隷という新しい書体も現れるようになりました。これがやがて草書になりました。前漢のころから表れ始め、後漢になると広く使われるようになりました。草書は隷書を極力簡略化し、一つの文字の筆画を最初から最後まで続けてほとんど一画で書いてしまいます。

(草書の詳しい特徴については「草書について」を参照)

「真草千字文」智永
「真草千字文(しんそうせんじもん)」智永(ちえい)

行書・楷書

 草書が生まれた一方で、隷書をさらに直線的に書いたものが楷書となり、隷書と草書の長所を生かした書体として行書が生まれました。つまり、隷書から他の書体の誕生には「隷書→草書」という流れと「隷書→行書→楷書※」という二つの流れがあります

 楷書は後漢の頃から表れ始め、三国時代以降には「正書」や「真書」と呼ばれるようになります。やがて、隋・唐の時代にかけて標準的な字体となっていきました。行書も楷書の成立とほぼ同じ時期に成立したと考えられています。行書は東晋時代の能書や王羲之という書家の出現によって一つの書体として完成していきました。

※行書と楷書の成立時期に関しては、厳密にいえばどちらが先かは明らかになっていません。おそらくは行書が先だと思われますが、楷書を先と考える方もいます。

(行書、楷書の詳しい特徴については「行書について」と「楷書について」を参照)

「蘭亭序」王羲之
「蘭亭序(らんていじょ)」王羲之(おうぎし)(303-361)
「九成宮醴泉銘」欧陽詢
「九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)」欧陽詢(おうようじゅん)貞観6年(632年)
現代の中国で使われている文字は?

 現代の中国で主に使われている文字は簡体字といいます。複雑な漢字を省略する際、楷書化した草書の要素を取り入れたり、画数の少ない別の漢字に置き換えたりしています。清代末期には徐々に従来の漢字を簡略化する動きが表れ始めましたが、実際に簡体字が採用され使われ始めたのは1956年です。